頭上の影


 駅へと近付くにつれ、道行く人々は次第にその姿を増してくる。男はいつものようにこの道を歩いていた。背後からの陽射しが、これから進む先の路上に男の影を落としている。自分より僅かに先を行くその影に視線を降ろしたまま、男は駅へと向かう道程を歩いてゆく。
 ふいに辺りが暗くなった。背後の頭上からすうっと伸びてきた影が、路上の男の影を覆った。男は立ち停まった。巨大な靴底に頭上を塞がれた、そんな気がして思わず空を見上げた。疎らに浮かぶ小さな雲々が、青空の中を結構な速さで流れてゆく。その中のひとつが陽射しを遮りながら、やはり結構な速さで太陽の前を横切ってゆく途中だった。
 彼女もいつものようにこの道を歩いていた。道すがら出会う全てのものに彼女は興味を示し、それらが自分達にとって必要なものかどうか、いちいちそれに触れ確かめてゆく。陽射しに灼かれたアスファルトの上。全身に黒を纏った彼女だったが、その暑さもさほど気にならない様子で、路上を忙しなく歩き廻っている。
 ふいに辺りが暗くなった。背後の頭上から音も無く忍び寄った影に覆われ、彼女もまた立ち停まり、思わず空を見上げた。太陽と彼女の間を何か黒いものが遮っている。それは次第に大きくなっているようで、それが路上に落とす影もまた、彼女を中心に前後左右へと大きく拡ってゆく。やがて彼女が見上げる空の全てが、その黒いものにすっぽりと覆われた。
 太陽の前を雲が過ぎ、辺りは陽射しを取り戻す。路上に再び現れた己の影に視線を戻し、立ち停まっていた男は再び歩き始めた。
 腕時計にちらりと眼を向け、男は歩みを早める。男の靴底が去った後の路上には、一匹の蟻が残されていた。乾いたアスファルトに黒く滲む、小さな染みにその姿を変えて。



Kaeka index.